広角伊見

Vol. 10
夏の真っ盛りは雑草もしばらく枯れ姿に変身

2023 08 25

イタリアで一番長い川であるポー河の支流のひとつにターナロ川がある。
リグーリア州のリグーリアアルプスを源とするこの川がピエモンテ州クーネオ県を流れるとき、下流に向かって右岸に位置するバローロ、バルバレスコと左岸のロエーロ地域では明確な土壌の違いがある。

大樽あるいは小樽熟成を経て瓶詰後の熟成期間を経てようやく個性が開花し始めるのがイタリアのワインの王と評されるバローロである。ネッビオーロ種100%で造られるが、基になるブドウのネッビオーロは、小粒で皮も厚くそして収穫時期も遅いのが特徴でもある。
一方、対面のロエーロ地域の土壌は砂礫質であり、なるべく個性が失われない若い内に飲むのが良いとされる白ワインのアルネイスに代表されるブドウ栽培に適している。

流れがアスティの近くまで来ると平地が広がり、これまでの度重なる洪水の影響で平地は堆積作用を通じて豊かな栄養分を充填してきた結果、野菜類の栽培が盛んである。この恩恵を受けた夏野菜のひとつに1個300g以上ある肉厚パプリカがある。主生産地であるMotta (モッタ)産パプリカといえば赤、黄色が弾けるような艶に代表され近隣に名を馳せた。
焼いている途中で破裂しない様に数か所ナイフを通し、表面にオリーブオイルを塗りオーブンで丸焼き。焼き上がる迄200度のオーブンで30分以上もかかるほど身が厚く、手に持てるまで冷ましたあと厚い皮を剥き、種を取り除く。ツナ、アンチョビ、パン粉、イタリアンパセリのみじん切り、焼いているときに出てきた汁を混ぜ合わせたのを中に詰めたパプリカの甘さ、ツナを蒸してオイル漬けからのコク、アンチョビの塩分に含まれる旨さが調和をはかるこの逸品は、夏の前菜として欠かせない。

1994年11月の甚大な被害が出たのを機に河川敷を広げ堤防をより高く構築したことにより2009年、2016年、2020年に襲った豪雨でも完成まで随分時間を要したこの堤防を超えることはなかった。
しかし反面、名産でありバーニャカウダに欠かせない横に倒し白く仕上げるカルド畑もすっかり姿を消してしまい、その分ビニールハウスが増え鉢植えの花とハーブに主力を注ぐようになってきた。これらはスイスとの国境の町であるドモドッソラからシンプロン峠を越え、これからの季節は太陽の恩恵が薄くなるドイツなどに販売される。夏時間が終われば次の年の復活祭を迎える頃まで分厚い雲に覆われる日が常となる国々において、イタリアから届くシクラメンの花を愛でて、直接鉢から切ったタイムやバジルの香りを料理に添えられるなど考えられなかったと聞いたことがある。

ここ数年、トリノ近郷にあるカルマニョーラにパプリカ生産の座を譲ってからは、トウモロコシ畑が広がるようになってきた。

春先にトウモロコシの種を蒔いて株の根も張り葉の面積が増えると光合成が活発になり養分がつくられ根の張りもよくなり幹も成長、倒伏しにくくなる。7月半ば過ぎからの日照り続きに照準を合わせるように育った実は充分に畑で乾燥するのを待ち9月にコンバインで収穫。硬くなった実は製粉所で粉にして動物の飼料用として利用。トウモロコシは吸肥力が高いので収穫時に幹は裁断して畑に戻し肥しとしての働きをしてもらう。

7、8月の同じ時期、日本は梅雨そして台風に襲われる可能性が高くなるが、地中海性気候の下では夏に長雨はまず考えられず、自然災害に見舞われる可能性も低い。その結果、日本ではついぞ知ることもなかった干ばつに強いトウモロコシが開発されたのだと想像できる。

北イタリアでは寒い時期に入ると気負って準備する機会が増えるポレンタ用のトウモロコシは別の種類であり、札幌の大通公園で売られ有名な焼きトウモロコシのような食べ方はない。

ニョッキ アッラ ロマーナはトウモロコシの粉をグラタン仕上げにしたものであり、フレッシュパスタに混ぜて表面をザラつかせ、ソースとの絡みがよくなるように使ったり、あるいは伝統的にドルチェの生地に加えたりいずれも粉にしてから使うことが多いのが特徴といえる。

真夏、雑草も一旦枯れるも秋には復活

真夏、雑草も一旦枯れるも秋には復活

畑で天日乾燥させてから収穫

畑で天日乾燥させてから収穫

これから天日乾燥に入る

これから天日乾燥に入る

トウモロコシが実るのは1本に1個

トウモロコシが実るのは1本に1個

日照りに負けずに成長。根が浅い幼木の周りには麦わらを重ねて敷き土の水分蒸発を抑える役目をしている

日照りに負けずに成長。根が浅い幼木の周りには麦わらを重ねて敷き土の水分蒸発を抑える役目をしている

むなしく枯れてしまった幼木

むなしく枯れてしまった幼木

幼木を枯れ死から守る点滴灌漑用配水菅

幼木を枯れ死から守る点滴灌漑用配水菅

今年のバルベーラ種、色素が増え緑色の果実は見えなくなりました

今年のバルベーラ種、色素が増え緑色の果実は見えなくなりました

Vol. 09
夜半からの遠雷に始まり突風、そして横殴りの雨が一夜にして季節を変えてしまう

2023 08 21

日中、頭上にある陽は8月とはいえ肌を刺すような強さ、明日からは9月という夜半、季節が移ったことを体感させる一夜の嵐に毎年遭遇する。

8月の最終日夜半から急激に気象状況が変化、窓枠がビリビリと震えこの世の終わりを思い起こさせるようなズッシーンと腹に響く雷、そのあとの強い雨風が収まるのを待つしかなくも9月1日にと日付は変わり、マジで一夜明けた翌日から秋になるという経験は、若いだけで体力はあるも無知で世間知らずであった若い時を過ごしたローマでも遭遇した。坂道の石畳の上を雨水が激しく流れた翌日、レオナルドダヴィンチ空港でみた碧空とは打って変わった澄み切った空を仰ぎ見て実感した。

思いもよらぬ年月を重ねて住むようになったピエモンテに於いても突然のように前の晩遅くに来た強くも短い時間のずしんと腹に響く雷と強い風雨、9月に入ったその朝、景色はおなじながらにして身をつつむ気温の変化にまず体が反応する年齢になった。

季節の変わり目に発生するイタリア特有の気象現象なのか、それにしても毎年決まっているかのように8月の最終日から9月初日の明け方にかけて気象状況が一変し、一夜にして秋に移ることがあるのだと体験したこと以外に詳しいことは、敢えて知りたいとは思わなかった。

発する発音でしごかれ教えられながら通ったローマ中央市場には、5月になるとスペイン階段に大鉢のツツジが飾られるころから市場にはその香りを満遍なく漂わせていたバジル、9月に入ると遠くシシリー島から運ばれてくるマンダリンオレンジの香りへと移っていった。

季節を廻り市場に通うようになりバジルは初夏から夏、そしてマンダリンオレンジの香りは出回る時期が短いがゆえに遠からず押してくる冬への足音でもあることを特徴ある香りが体験を通して教えてくれた。

この気象的な特徴から発生する明確な季節の変化は、南北に長いこの国の多くの地域で発生し、住まう人々にもっとも直接また簡潔に季節は静かに忍び寄っていることを体感させうる合図ともなっている。

Vol. 08
灼熱の年、2003年のバルベーラ

2023 08 10

毎日、日照り続きである。
それでも朝はすこし爽やかな気温を体感できるようになり、年間で一番暑い7月を冷房なしでもしのげたことは、夜半なると幾分気温が下がることもさりながら湿度の低さのお蔭に因るところが大きいと実感している。

ここ数年来の世界規模の暑い夏が押し寄せる以前の2003年の夏は、記憶から消し難い年であった。
これ以上、ブドウ収穫を先延ばしにしておいたら糖度が上がり過ぎ、アルコール度数だけが高くなり、白ワインの持ち味である繊細でフルーティな香り、すっきりとした飲み口という個性が失われてしまうという判断から、8月10日前後にはまずシャルドネ種の収穫から始め、間を置かず次はアスティ地方を代表する甘口デザートワイン、モスカート ダスティとなるモスカート種の採り入れに移った。

これら白ブドウ品種は収穫後、直ちにワイナリーに運び、実だけを搾る。搾ったブドウ果汁だけを発酵タンクに送るとブドウ表皮に付着していた野生酵母菌も果汁に混ざっており、糖分をアルコールに変化させ、併せてCO2と熱を出す。発酵中この熱が高くなり過ぎると最も繊細な風味が失われることになり、夜中に起きてはタンク内の発酵温度を確かめたりすることも余儀なくされる。よしんば、温度調整機能を備えた発酵タンクがすでに販売されていたとしても小規模生産者には高価過ぎて手が出ず、熱変化の影響を受けにくい従来のコンクリート製タンクでアルコール発酵を行い、温度が上がり過ぎるとドライアイスを入れたりして持ち味の個性を保つための努力もしたと云う。

2003年のブドウの出来具合は、100年に一度巡り合えるかという最良年だったいう評価はそのあと知ったことであり、収穫時はただひたすら灼熱に耐え、ひと房ずつ手に取りハサミで切り取るブドウから滲みでる果汁でこれ以上ないほど手はべとつき、足元の日陰に置いた水もすっかりぬるま湯と化し、喉に流し込みながらの摘み採り作業、なにが楽しみかといえば木陰の下でみんなで食べた昼食、献立は放し飼いにしておいた鶏の肉とパンチェッタで和えたショートパスタ、ウサギ肉の煮込みが定番だった。
その後、赤ワインとなったバルベーラは、あれから随分年を経た現在もカンティーナに眠っている。

2005年の夏を迎える頃、1年以上樽熟成を行っていた2003年産のバルベーラは瓶詰を行い、瓶熟成に移った。通常、バルベーラでは到底有りえない20年後でも味わえる個性を持ち合わせているという言葉を信じ買うことに決めた。トリノで冬季オリンピックが開かれた年であった。私に引き渡す前、薄暗い作業場の片隅で低い椅子に腰を下ろし、一枚ずつラベルに糊を塗り瓶に貼ってくれた。
バルベーラ葡萄収穫年2003年もこれ以上大事に置いておいても飲み頃を逸するばかりであり、コロナ禍に遭遇しようやく3年ぶりに戻れた昨年の秋、その内の一本の栓を抜きグラスに注いでみた。

1989年10月トリノ市で開催されたイタリアソムリエ協会最優秀ソムリエ賞に輝き、永くicifのワイン講師を勤めたジャンニ・レルカーラさんが、いつかいみじくも発した言葉が脳裏をよぎった。

彼は、畑からブドウを収穫しワインに変える一連の作業に情熱を持ち続け取り組んできた。そして後押しをしたのは、一日中陽が差し水はけの良い傾斜地には、ブドウ栽培に適した土壌の構成など優れた畑に恵まれ、そのすべての結果がボトルの中に詰められている。

生きておれば誰しもにしのびよる老いは、体力にも恵まれていたときと負けず劣らない情熱は持ち続け得られたとしても肝心の健康がその意思の継続にブレーキをかけ、ついに所有しているすべてのブドウ畑における栽培とワイン造りから退く決心をしたと本格的な暑さが到来する前の陽が長い夕方、私に語った。

無名に徹し、熟成という将来が楽しみな、あの類まれなワインをカンティーナのなかで静かに過ぎ行く時と共に寝かせておくことは、もう求めても無理なことになってしまった。

ぶどう

実の中の糖度が高まると実は色づき始めます

ドルチェット

ドルチェットという品種名で甘いわけではありません

Moscato

モスカート

2003年バルベーラ

2003年バルベーラ

Vol. 07
年月を超え読み上げてくれた母から嫁ぐ娘への口述筆記レシピ

2022 12 08

2014年9月4日、隣家に住むコリーノ夫人がその生涯を閉じられた。
1922年8月トリノ県の生まれであり、92歳の誕生日を迎えてまもなくの逝去であった。

次男のご子息が農学博士であり、独自のブドウ自然栽培法を生涯のテーマとして、親の代からの畑で実践されておられた。お元気な頃、何度かお話をお伺いに上がる機会をいただく間に、ご母堂であられるコリーノ夫人から戦前、戦後に渉るトリノで働くまで過ごされた山に囲まれた生国、結婚後住むようになったコスティリオーレのお話をお聞かせいただく機会に恵まれた。

コリーノ夫人は、18歳のとき人口千人未満のValgioie(ヴァルジョイエ)という小さな村からトリノにあった建築事務所に勤め始めた。
1944年、第二次世界大戦末期、同じ会社の上司でありエンジニアの方と22歳で結婚。しかし、戦争も激しくなり会社も閉鎖することになりご主人は既に次の仕事先の建築事務所がジェノバに決まっていたが、実家の父も高齢期に達しご主人は家の跡を継ぐ必要もありコスティリオーレに戻ることに決心、夫人はコスティリオーレで生涯を終えた。

ご主人は慣れないブドウ栽培を主な仕事とせざるを得ず、就学時の頃から好きで覚えた大工仕事で現金収入を得ることができたという。

1944年7月、22歳で嫁ぐ数か月前からコリーノ夫人の実母から口頭で伝えられたレシピを筆記した料理書(冊子)を見せてもらう機会があり、画像と録音で記録しても構わないことを承諾を得た。

最初の頁をめくった右頁最上段に表題であるPreparazione alla buona Cucina.と書かれてあり、反対側ページの上には年号である1944と書かれてあった。「おいしい料理の準備」と名付けられたこの小冊子を64年後の2008年12月末、雪の降る午後にご自宅で読み上げてもらった。 それは、その日のために待ち望んでいたかのような張りのある声で読み上げてくれたあと、当時を回想されエピソードも聞かせてくれた。

アニョロッティ
(薄く伸ばした卵入りフレッシュパスタに中身をのせ成形したアスティ・ランゲ地方の代名詞ともいえるプリモピアット )

ウサギ、豚肉、この二種類の肉は二日前にローストして冷まし、特にウサギは焼く前に包丁で骨を外すのに時間のかかる仕事であった。焼いてミンチした肉類に茹でたホーレン草をみじん切り、チーズを加え詰める中身を仕上げる。
卵を入れごく薄く伸ばした生パスタで包んで仕上げた。沢山つくりみんなとても喜んで食べてくれたけれど、何日も前から仕込むのに手間がかかるので家族に特別な祝い事などが無い限りは作らなかった。

今日、用意しておいたブネッはトリノからコスティリオーレに来て間もなく義母から教えてもらって覚えた。
ブネッという意味は、霧が深い時に露除けにかぶる帽子のことを指すピエモンテ方言。材料を全部混ぜ合わせた液体をアルミ製のあの帽子の型に入れて湯煎で固めてつくるのが本来のつくり方。でも型が大きくて固まるのに時間が掛かり過ぎて今はこんなのでつくった時代もあったという思い出の分類に入ってしまった。

家事で使うすべての水は家の前の井戸水を使い、衣類の漂白は灰を利用したこと。
若かったし周りのみんなそうだったから特に苦労とは思わなかった。

たまにトリノからさらに離れた実家に戻れるときは、朝7時に村の広場から出る始発のバスに乗るため、夜が長く夜明けの遅い季節は、懐中電灯をもって子供たちの手を引き6時過ぎに家を出た。コスティリオーレは坂道が多いのでどこへ行くにも自転車より徒歩が当たり前であった。

この部屋に居ると、今あなたが座っている椅子の上を小さかった子供たちがそのうえを歩いていた声が聞こえてくるよう。遠く過ぎ去ってしまったあのころをまるで違う世界のことであったように想う。

ひとつのレシピは、あるものは僅か数行にまとめられ、全体に簡潔な表現であり合計108種類に及ぶ料理やソース類、デザート、最後108番目は紅茶の入れ方で締め括られていた。

時代は第二次大戦末期、嫁がせる娘にどんな思いで筆記させたのか。時代を超え、娘を想う親の気持ちを推し量ると雪の舞う鈍色の空を見つめ切なくなるものを感じた。

隣家とのあいだにはブドウ畑とのあいだに砂利道が通り、下りきるとT字路の村道の前からは10ヘクタールに及ぶブドウ畑が広がっている。

コリーノ家の屋敷まわりには年を経た広葉樹が何本もあり、初夏のころには鬱蒼とするほど葉が大きくなり、梢のあいだを風が通り抜けるとき一斉に葉という葉が揺れ合い重なり合う音と共に隣家も葉陰越しに見えるようになる。私は、風音と共にこの葉摺れの音が聞こえる夜半はコスティリオーレに居ることを実感するようになった。

コリーノ夫人が他界されたあとも年月は季節とともに静かに流れ去り、陽が斜めに傾く間を置くことなく両肩にゾクッとする寒気が忍びよるようなときに身をおいても、陽の光が真上から射す季節、春より周りの葉の色が濃く深くなり勢いすら増しているように感ずる夏の日暮れ、瘦身を丈の長い服で身をつつみ花柄模様のスカーフで小ぶりな顔を覆い、緩やかな坂道をゆっくりと枝払い作業をしている私の方に向かって歩みを進めて来てくれた日に再度巡りあえるような気がしてならない。

ボネッの型

ボネッの型

追記
2022年11月末、コリーノ夫人のお孫さんに当たるLuisaさんが久方ぶりに家の窓が開いていたので訪ねてみました、とわざわざ足を運んでくれた。その日の午後、2008年12月末、コリーノ夫人に朗々と読み上げて頂いたカセットテープを再聴し、当日のメモを読み返し年月は過ぎ去っても忘れ難き隣人を悼んだ。

Vol. 06
イタリアの晩秋と地球温暖化

2022 11 29

晩秋から翌年の2月末頃まで関東地方は冬特有の冷たく乾燥した空気に身を包まれ、空を仰げばカンと抜けるような青空の日が続き、東京においても富士山の雄姿を望むことができます。

一方、同じ北半球に位置する11月のイタリアは雨季の最中であり、日暮れも早く暗さとそぼ降る雨が気持ちも滅入させらせる季節です。
そして、この頃から翌年の春を迎えるまで霧の発生ハイシーズンでもあり、ラジオから流れる道路交通情報においても、高速〇号線あるいは国道〇〇号線〇〇付近はバンコ ディ ネッビア発生と注意を促すアナウンス回数ががぜん増えてきます。

バンコ ディ ネッビアという意味は、土手あるいは壁の様な厚い霧が発生していることを現わす表現であり、付近を走る、あるいはこれから発生地域に向かうドライバーにとっては、判断や行動のよりどころとなる聞き逃せない報せです。

走行中、前方に見えてくる分厚い霧の中に突っ込む様に入ると、それは真冬の北海道で経験したパウダースノーと風、雲などによって瞬時に視界が白一色となり、方向・高度・地形の起伏が識別不能となるホワイトアウトに匹敵すると云えます。しかし、霧は道路に引かれた直前の白線は目視確認ができるだけ幾らか安全ではないかと思います。

欧州車には後続車に自分の車の存在を知らせる目的からリアフォグランプの装備が義務付けされている理由も、霧が起因していると考えられます。勿論、日本車が欧州に輸出する場合はこの基準を満たしていなければなりません。

イタリア北部を通る高速道路A26号線は、地中海に面するリグーリア州とピエモンテ州の北西を通る高速道路です。ジェノヴァからアペニン山脈を超えて、ポー平原を横断し、マッジョーレ湖とヴァル・ ドオッソラ付近まで到達している路線です。

アペニン山脈と針葉樹の松などが多い亜高山帯針葉樹林を通り抜け、多数のトンネルにちなんで別名アウトストラーダ・デイ・トラフォーリ(トンネルの高速道路)と呼ばれています。

初めてリアフォグランプの効果を実体験したのは今から遠く過ぎ去ってしまった冬の夜。ジェノヴァから高速A26号線に入り、ICIF研修施設がトリノから移転したばかりのコスティリオーレ村に戻る途中、アペニン山脈に差し掛かる辺りから前がよく見えないほどの猛烈な吹雪に見舞われ始めリアフォグランプを点灯、吹雪の中を赤く強い光がまるでピッチャーの投げる直球の如く一直線に真後ろを照らしているのをバックミラー越しに視て、自分が運転している車の存在を後方車に示してくれる効果を実感したことを記憶しています。また、濃霧の下では前方に強く点灯し車間距離を保つのに役立った場面には幾度となく遭遇しました。

雨季から冬の間、朝夕の気温自体は−5℃~5℃くらいであり、極端な寒さではではないのですが、頭上を分厚い鍋蓋をされたような雲の下シトシトと降る雨で気持ちやパフォーマンスにも影響を受け、早く過ぎ去って欲しいと願う季節でした。降雨量の多い年は大きな水害が発生するのも11月に集中しています。

地球全体に大きな影響を与えている温暖化の影響は顕著に出始め、ここ数年雨季と呼べるような季節が失せてしまったようになり、今年2022年11月も連日好天気が続いています。

霧とは無縁になったコスティリオーレの夜明け

霧とは無縁になったコスティリオーレの夜明け

地球温暖化が問題になる前、2009年1月のブドウ畑

地球温暖化が問題になる前、2009年1月のブドウ畑

11月末とは思えない青空の下ブドウ畑からコスティリオーレ城を望む

2022年、11月末とは思えない青空の下ブドウ畑からコスティリオーレ城を望む

2021年秋から北部山岳を含む平地や丘陵地帯で極端に雨と雪が降らなくなってしまい、2022年初夏、ポー河の水位が下がり始め欧州一の米作量を誇る流域水田地帯全域でこの年秋の収穫量は前年対比3割減という大きな影響を受けたことは記憶に新しいことです。

ピエモンテ州は赤ワインの銘醸地として名を馳せ、経済的効果も多大なるものがあります。これら一帯の土壌は粘土質が多く、ブドウの木が休眠中の晩秋から冬期間に降った雨や雪はじっくり時間をかけて土に染み込み、その結果、地中の土はいつもしっとりと湿度を保った状態になり、地中海性気候の特徴でもある夏の期間は極端に雨が少なくなるという環境の下、急こう配の畑においてもブドウの木が枯れずに済む大きな効果を発揮しています。
しかし、この先このまま極端に雨、雪が少なくなると当然影響を受けることは避けられなくなると予測されます。

コナラ・クヌギなどの木々の葉も落葉は12月に入ってから

コナラ・クヌギなどの木々の葉も落葉は12月に入ってから

11月末、白ブドウ品種の葉はまだしっかり木に付き、下草も緑を失っておらず

11月末、白ブドウ品種の葉はまだしっかり木に付き、下草も緑を失っておらず

ブドウに代わりオリーブ畑が少しずつ増えている

ブドウに代わりオリーブ畑が少しずつ増えている

今の季節に東京のような青空が毎日広がり陽だまりのなかに身をおきながら、地球温暖化の影響を受けている真っただ中にいるのだと実感させられています。

Vol. 05
夏の終わり

2022 8 30

暑く、各地で豪雨に見舞われた夏も終わろうとしています。

一方、雨不足、凄まじい熱波、干ばつ、山火事多発、強くて長い欧州の夏です。

8月も2週を残す頃になると、夏季休暇を過ごした人が街に戻る始める時期に移ります。白い肌のままでいることを極端に嫌がり、皺の奥まで陽射しを浴びさせる人が多いのも欧州のお国柄ですが、さすがに今年は日陰を求めて歩く日中の暑さ。

干ばつと強い日照りで茶色く枯れている様に見える雑草は、生き抜くためのしたたかさから自ら葉を枯らしひたすら耐えています。

今年2022年のような酷暑は2003年についでの暑さと報じられています。

鮮明に記憶に残っているこの19年前の夏は、5月半ばころにはイタリア全国の電気屋、家電量販店から扇風機が姿を消してしまい異常な暑さ到来の予兆ともいえたことでした。盆地のフィレンツェは殊の外暑く、知人が扇風機を買ったと同じ語学学校に通う友人たちに話したらよく見つけたねーと強い羨望のまなざしで見られたそうです。

海抜250mの丘陵にあるコスティリオーレ村は、昼は日差しが強く暑くとも夜半になれば気温は下がり、日によっては日中と夜半では10℃以上の気温差があり、空気も乾燥している地中海性気候の下では寝苦しい熱帯夜にはめったに遭遇することはないと言っても過言ではありません。

当時は今日以上に住宅、アパートに空調が備えられておらず、シチリア州中部都市エンナ近郷では2003年7月17日の最高気温が46℃にも達しました。6~8月の平均最高気温はそれぞれ36℃、38.9℃、38℃であり、この暑さが原因でイタリア全土では約2万人が死亡するという結果になりました。

日本も46℃の温度を示したことが記録に残っています。

大正12年(1923年)9月1日関東大震災翌日の2日未明、竹橋付近にあった中央気象台の温度計が46.3℃を記録しています。しかし、これは火災の影響を受けたものであり公式記録からは削除されました。

隣国フランスの情況と云えば、パリ市内のアパートにおいても空調設備は未設置の処がほとんどであり、75歳以上の高齢者の人たちが脱水症から亡くなり、夏暑くなる地域であるブルゴーニュ地方ヨンヌ県では、8月初旬8日連続で40℃以上の気温が観測されました。

パリや夏暑く冬寒いヨンヌ県などで高齢者の葬儀が異常に増えていることを聞きつけた報道機関が、片っ端から葬儀屋に連絡を入れたことから死亡者数を掴むことができたと秋口になり報じられ、さらに高温は緊急マニュアルの対象外であったことも併せて報じられました。2003年夏フランスでは高齢者を中心に約15,000人が亡くなっています。

2021年11月晩秋の季節、本来は雨季にあたるのですが、まとまった雨や雪がほとんど降らず、春を迎えても河川に流れ込む雪解け水の量が極端に少なくイタリアで一番大きなポー河も干上がってしまったところに再度季節は周りきて夏を迎えなければならなかったのです。この河の流域は欧州最大の水田地帯でもあり、今年の稲作収穫量は3割減になる打撃を受けています。

ICIFのあるアスティ県の水道水の水源は湖底湖にあり、ここの水位が下がっていることから本格的な夏を迎える前に一般家庭を含むホテルやアグリツーリスモのプール使用禁止が発令され、7月には理美容室のシャンプー禁止まで発令しなければならないほど深刻な状態に陥っていました。

周りの丘陵一帯の畑に植えられたぶどうは50年以上経た古木ほど地中深く根を張り、この地方一帯は粘土質であることから深くなるほどしっとりと湿り気があり急斜面の頂上にあるぶどうの木であっても枯れることはありません。

8月最後の日の夜半、大きな雷と共に小一時間ほどの激しい雨に見舞われた翌朝はひんやりと肌寒さを覚えるほどに気温も下がり、空気も澄み渡り天を仰げば一段と高くなった空が広がり一夜にして季節は移り、夏は過ぎ去ったことを何度も経験しました。

あれがもし繰り返してきた季節の移り変わりと云えるのであるのなら、もう一度戻ってきて欲しいと願うのは決して私だけではないと思います。

Vol. 04
米の生産量がヨーロッパ一のイタリア 
機械化が進む以前、出稼ぎ労働者のエネルギー源であったパニッシャ

2022 6 23

イタリアはヨーロッパで一番水田耕作面積が広く、収穫量においてもヨーロッパ産の50%以上はイタリア米であり、第2位のスペインに大きく差をつけています。

ピエモンテ州とロンバルディア州にまたがるイタリアで唯一の平原であるパダーナ平原からは遥かにアルプスを望む広大な水田地帯を見ることができます。

この2つの地域においてヴェネツィア、ジェノヴァを経てスペインから導入されたと云われる米は、1880年代末、サヴィオア家の大番頭であり1861年イタリア統一後初代首相に任じられたカヴールが推し進めたアルプスからの豊富な水を水田地帯迄灌漑用水として完成させたカヴール灌漑の完成をみて、ピエモンテ州の水田設備は完成の度合いを高めたという背景があります。

この国で丘の上にまで小麦畑があるのは主食がパンであることを物語っているとも云え、米を耕作するには田に水を張ることは必要不可欠であり灌漑設備が整っている平地のみで耕作し、農業用水を引き入れるのが難しい標高の高い処に棚田まで作ろうとはしませんでした。

ICIF開校間もない1990年代初め、燕が水田を飛び交うようになり始めた季節、イタリアネオレアリズムといわれた時代の映画「苦い米」の舞台にもなったピエモンテ州の米作地帯に170ヘクタールを所有している米作農場を見学したことがあります。

牛馬で田を反し、ベネト州、エミリアロマーナ州などから来た大勢の女性季節労働者がつばの広い麦わら帽子を被り膝まで水に浸かりながら、成長した苗を植えるのではなく田に突っ込むような田植え作業、腰を曲げながら除草するシーンは「苦い米」、やはり映画「水田地帯」のシーンにも描かれている地域に農場は在りました。

威厳さえ感じさせられる大きな館は18世紀半ば過ぎ頃に建てられ、正方形をしており一辺が100mはあろうかという大きな建物。城門を思わす正門をくぐると中庭一杯に広がるのは、長方形に区切られた面が幾面も並んでおり、これらを取り囲む路には石が敷かれ秋の収穫時になると籾を広げ天日干しする場として使っていたといいます。

もう一辺の1階には、小さな礼拝堂、乳幼児を預かる託児所、小学校の教室、雑貨屋、2階部分は年間を通じて働いている家族用にそれぞれ独立した住居が設けられていました。見学者が多いことを物語っていたのは、礼拝堂や住居部分を含む内部が随分と整理されていたことからも伺うことができました。

我々の職業柄から、この地で家族と一緒に生活を送りながら仕事に従事していたこれらの人たちの食事はどの様なものであったかをご主人が説明してくれました。

結論を先に記せば、できるだけ自分たちで賄う自給自足を基本においていたそうです。建物のもう一辺には長い厩(うまや)があり、4つ足、2本足の動物類を飼育。朝と晩に搾った牛乳でチーズを作り、雪が降り屋外で仕事ができなくなる頃には、それまでの期間をかけて太らせた豚からの肉でパンチェッタ、各種部位の肉をミンチにしたあと塩と香辛料を混ぜサルシッチャ、サラミ類を作り保存食に。

皮から削いだ脂肪を鍋に入れ水を加えて火にかけ溶かしたのを、濾して作った柔らかい脂をテラコッタの容器の底に厚めに塗り、その上に腸に詰めたサラミソーセージを並べ更に脂で覆う。このようにしておけば、夏が来るまでフレッシュな状態で保存することが可能になり、地域の郷土料理であり、明日への活力の基となるパニッシャに欠かせない食材となっていました。

館の周りではタマネギ、キャベツ、ジャガイモ、インゲン豆など長い冬に備えられるものも栽培していたそうです。

夜が短くなり再び陽が高くなる季節がまわってくれば、日がな一日足腰が立たなくなるほどの労働と暑さに耐えなければ季節は先に進むばかりで待ってくれない、腹も満たしてくれ体力を維持させてくれたのはこれらの材料を使ったパニッシャであったそうです。

このピアットウーニコ(一皿のなかに炭水化物・たんぱく質・脂質など3大栄養素が含まれている料理)は、1日10時間以上に及ぶ重労働に耐え抜ける基となっていたことは容易に想像できます。

後日、やはり米どころであるノヴァーラ近郊にレストランを構え、リゾット作りを得意とするシェフを学校にお招きして、このパニッシャを作ってもらったことがあります。必要なすべての材料はシェフ自ら準備してくれたのを使い再現してもらいました。

ラルド(豚脂肪の厚い部位に塩、ローズマリーなどハーブ類とコショウを混ぜたものを刷り込み熟成させたもの)と豚皮でタマネギ、キャベツ、一晩水に浸しておいたインゲン豆などを炒め、テラコッタの壺から取り出し手にまとわり付くような脂を取り除き粗みじん切りにしたサラミも一緒に炒め、そのあと研がない米を入れ野菜類からとったブイヨンを加えながら煮込み米がアルデンテに仕上がれば火から外し、下ろしたチーズを加えよく混ぜて完成。

シェフから皿に盛ってもらった試食の量だけでもずしんと胃にこたえ、このような重いピアットウーニコを腹に収めなければ、作業のすべてを人力でこなしていた時代が要求した料理ではなく糧であったのだと、言葉や文字だけの説明で理解するまでには到達はできないと実感させられたことを記憶しています。

Vol. 03
バッカラ Baccalà(タイセイヨウダラの塩漬け)

2022 5 10

長い半島を海に囲まれたイタリアでは、流通が発達した現在でも、漁港に近い地域では鮮魚が入手しやすく食卓に上がる機会が多いものの、少し内陸部に入ると魚介類を食べることは極端に少なくなります。しかし、地域を問わず山間部に位置するところでも、遠い中世の時代は、塩の道を通って運ばれてきた交易品目の中には、塩漬けタイセイヨウダラから作られたバッカラは必ず含まれており、素朴な形で料理され食べられていました。

バッカラは宗教的な理由から肉食を避ける日の伝統的な魚であり、塩抜きした後、スープ、フライ、煮込み料理など料理の範囲も広く、またケイパー、オリーブ、ニンニク、トマト、ジャガイモ、オリーブ・オイルなどとの相性が良いことから地方ごとに長い年月をかけて工夫された調理方法が今日に至るまで伝わっています。

東大西洋を大規模な生息地域とするタイセイヨウダラは、北太平洋で獲れるマダラより大型で重量もあり、当然身も厚いのが特徴です。腹から開き、頭と内臓を除いた後、寒風にさらしてから一匹丸ごとずつ塩漬けにします。常温保存が可能になるまで塩を浸透させれば、身は重ねて箱に詰め、ポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、果てはタラの産地である北欧諸国から遥かに遠い中南米諸国まで大量に取引されていました。特にブラジルでは宗教的伝統食であることに加え、旧宗主国であるポルトガルの食生活の名残を食べ続けてきたと云われています。

バッカラを料理する際、一番時間を要するのが塩抜きのプロセスです。身が厚ければ途中で複数回、水を替えながら1日から2日を要すことになります。半面、料理方法はおしなべて少ない種類の材料と短い時間内に仕上がるシンプルな料理が多く、淡白な白身から滲み出てくる塩味を含んだ旨さがこの魚料理の特徴として挙げることができます。
1960年代までは年間30万トンの水揚げがあり、ごく庶民的な食材であったバッカラも、漁獲技術の進歩と乱獲がたたり、1990年代初頭には資源量が激減しました。以来、価格も大幅に上昇する結果となり、今日ではすっかり高級食材の部類に入ってしまいました。

バッカラの価格高騰とともにシンプルに調理を施し、繊細さも伴った料理としてリストランテなど高級店で供されるようになってきました。
一例をあげると、バッカラの身を厚めに切り真空パックにした後、低温真空調理法で持ち合わせている個性と旨さを閉じ込めるように火を通しておき、オーダーが入ったらパックごと湯煎で温めてからから開封、ミステカンツァ(ベビーリーフ)などと一緒に彩りよく盛り付け、オリーブの栽培北限であるガルダ湖産のライトでデリケートなエキストラバージンオリーブ・オイルをかけます。この料理が評価される様になった背景には、激減してみて気付かされた良質な材料に対し、できるだけ余計な手を加えず逸品に仕上げるという考えを可能にしてくれた調理器具類の発達なくしては、できなかったと受けとめています。

Vol. 02
サルデニアの記憶

2022 4 24

2022年日本の国民の祝日は16日ありますが、曜日の並びが良い今年は、土曜日・日曜日がお休みの方にとっては3連休となる休日が9回あります。日本は先進国の中で国民の祝日が多い国として知られており、さらに「国民の祝日に関する法律」では、国民の祝日が日曜に当たるとき、その日の以後で最も近い平日を休日(振替休日)とすると定められています。
2022年は、該当する祝日がないため、振替休日はありません。

イタリアの全国的な祝祭日数は12日です。この他、イタリアの各都市ではそれぞれの守護聖人にちなんだ祝日があります。なお、イタリアには振替休日の制度はありません。
有給休暇が21日ありますので祝祭日12日との合計は33日になり、有給休暇消化率は75%、日本の50%と比較しますと高いですね。ちなみに、有給休暇消化率100%の国は、ドイツ、スペイン、ブラジルです。

3週間も会社を閉めて弊害はないのか?
「担当者は夏季休暇中です。ご用件は来月にお願いします」このようなことに遭遇することは珍しくなく、他の人がフォローしてくれることは期待するだけ無駄です。
当然のことながら、毎年この時期を迎えると経済活動は落ち込む結果となります。

夏季休暇中みんな何処へ行くのか?
無理をせずにそれぞれの家計に見合ったところを選び出かけているようです。
そのような中でも一生に一度で良いから、サルデニア島でひと夏を過ごしてみたい、という願望に近い声を耳にすることは決して少なくありません。

サルデニア島地図

地中海でシシリー島に次いで大きな島がサルデニア島です。

私も機会があり、初夏のころからすっかり人が少なくなってしまった時期まで、サルデニア島のエメラルド海岸にあるホテルで現場実習を行いながら過ごしたことがあります。抜けるような青空の下、周りは岩山ばかりが目立つ殺伐とした風景であり、マカロニウエスタンの撮影に使われたこともあると聞き納得。

エメラルド海岸を示す道標

エメラルド海岸を示す道標。

エメラルド海岸の中心地ポルトチェルボ全景

エメラルド海岸の中心地ポルトチェルボ全景。

休日に家に戻ったスタッフが、家庭では欠かすことのできない羊のチーズをお土産に持ってきてくれたことがありました。その夜の仕事を閉めた後、スタッフ用の食堂に集まり、テーブルの真ん中に新聞紙を広げ四方を高く折り壁を作り、おもむろにチーズに横からナイフを入れ持上げるように上の蓋の部分を外すと、中から無数のウジ虫が一斉に勢いよく跳ね上がり、シェフの「急いで食え」という掛け声と共に両手でつかみ口に入れました。塩分の濃いペコリーノチーズを食べて成長したのでとろけたチーズを食べている印象を受けました。保健所も自家消費としてつくることは黙認していますが、販売することは禁止しています。珍しいものを食べたというより、島民160万人よりも羊の数が多いこの島で暑く乾燥した夏の気象条件から生まれた食文化に出会えた機会でもありました。

風の通り道にあたるのか、夜を迎えると毎晩のように吹いてくる海からの風が宿舎の木枠の窓ガラスを鳴らし、記憶の中のサルデニアはいまもあの風の音が聞こえてきます。

エメラルド海岸という名の言われを示す澄んだ海

エメラルド海岸という名の言われを示す澄んだ海。

夏場だけ営業する高級ブティック

夏場だけ営業する高級ブティック。8月を迎えると原宿の竹下通りのような混雑になる 。

Vol. 01
ユネスコ無形文化遺産登録候補にもなっているエスプレッソコーヒー
発祥の地イタリアでカフェ空間バールでのプライス

2022 4 18

イタリア北部と南部ではエスプレッソコーヒー1杯の平均価格にも開きがあります。
イタリア経済を牽引している北部は高く、南部の方は安いというのが現実です。
コーヒーを象徴する2つの都市、ナポリの平均価格が90セント(約122円 )、北部トリエステでは平均価格1.21ユーロ(約163円)。大都市のミラノでは平均価格1.03ユーロ(約139円)、ローマでは平均価格が93セント( 約126円 )と発表されています。
大都市が安いことにちょっとびっくりです。

2020年時点で世界83カ国に32,660店舗を展開する米コーヒーチェーン大手のスターバックスが2018年9月にイタリア・ミラノに初進出した際、店内に焙煎設備も併設し、1杯の価格は1.8ユーロ(約243円)だったので、高級店舗の価格です。

エスプレッソマシーンで抽出されたエスプレッソコーヒー

エスプレッソマシーンで抽出されたエスプレッソコーヒー。
少量でコーヒーのエッセンスともいえます。
高温で高い気圧をかけ短時間で抽出するため、表面にきめの細かいクレーマと呼ばれるクリーム状の泡が張り、アローマの蒸発を防ぐ蓋の役目もしています。

エスプレッソマシーンで抽出されたエスプレッソコーヒー

一般的にモカあるいはマッキネッタと呼ばれる家庭用コーヒーポットで抽出したエスプレッソコーヒー。
気圧がかかっていませんので、表面はクレーマで覆われていません。

コロナ禍に陥り、2年が過ぎても未だ先が見えず、この期間イタリアはロックダウン、その後も営業時間規制、さらには観光客の激減、戦争、原油高とネガティブな要素は重なり、インフレの波に見舞われています。全国的に2021年の値段よりは上がっていることは間違いないと判断できます。

この様な状況下でもICIF本校のあるピエモンテ州コスティリオーレ村のバールでは、一杯の価格が1.10ユーロ(約149円)、コロナ禍の下で10%値上げしたのでこれ以上のしきいを超えないように頑張りますとの返信を受け取りました。

Page Top